ボケ父VS母と私、の40年を超える長い戦いが遂に終わりました。
そうです。ボケ父、臨終しました。
実況中継みたいに臨終と同時に即日ブログに書くのはどうなの?って思いましたので
あえて今まで伏せていましたが、もうお盆ですしね。
ちなみに、ボケ父は臨終しましたが、今年は新盆じゃないのだそうです。
四十九日を終えてから初めて来るお盆が、新盆だそうで、
ボケ父の新盆は来年になるのだと、お坊さんが言っていました。
ボケ父、四十九日はまだなんです。
これまでボケ父については、認知症含め、“人となり”を綺麗ごとナシに事実と本音を隠さず綴り、
当ブログの読者様には御心配を頂いたり、共感を頂いたりしておりましたので、
その締め括りとしてご報告を兼ね全て書いていきたいと思います。
臨終から納骨まで、全て私が望んだとおりに済ませましたので、今はとても満足しています。
7月のとある日曜、まだ夜が明けきらない午前4時。
カーテンの閉まった暗い家の中、突如 家の電話が鳴り響き叩き起こされました。
最初、「こんな非常識な時間に誰だ? イタズラ電話では?」
と、私は布団に入ったまま出ませんでしたし、母も同じでした。
一度は切れた電話ですが、数分後に再度かかってきまして。
ここで初めて、「ん!?」と。
母と私、同時に自室からリビングへ顔を出し、
「もしかして、ボケ父の病院なんじゃないの!?」と、ほぼ同じ事を口にし、
私が電話に出ました。
すると案の定、ボケ父の入院先の看護婦さんから
「ボケ父さんが現在、呼吸も脈もとても弱い状態です。
急いでこちらに来て下さい。もしかしたら、間に合わないかも。。。」
という話でした。
私は看護婦さんに、これからすぐに向かいますが、
自宅から電車で片道2時間かかる事を告げると、(隣県なので)
看護婦さんに、「来る途中で終わってしまうかも知れないけれど。。。」
という事を再度言われました。
電話を切ったら、さあ大変! 今すぐ病院へ向かわねば!
なんせ片道2時間近くもかかる遠い場所。
支度をしながら、カステラとか、簡単にすぐに食べられるものを少しだけ口に入れて。
この日は、梅雨の大雨の日。タクシーを呼んで駅まで向かいました。
始発から2、3番目の電車に乗りました。
後で私の携帯を見たら、着信履歴が沢山ありました。
病院には、私の携帯番号を第1連絡先と伝えていたのですが、
私は会社勤めなのもあって、常に携帯はマナーモードなんですね。
寝ていた&携帯を座布団の上の柔らかい所に置いていたのもあって、
着信のバイブがあっても、気が付きませんでした。
私の携帯が応答しないので、看護婦さんが第2連絡先である
自宅に電話をくれたのでした。
(次へ続く)
コメント
おつかれさまでした。長い戦いでしたね…。
うちにもどうしようもない親父がいまして(酒、タバコ、パチンコで借金作りまくり、いつも自分のことが1番)、T子さんに何か近いものを感じて、いつも拝読しておりました。
実はうちもつい数日前、40年を超える戦いが終わったところです。うちは離婚という形ですが…。
本当によかったです。
これから楽しい人生がおくれますように!
初めまして。
ティー子さん、長い戦いの終焉、本当にお疲れ様でした。
ティー子さんがいかに苦しんでこられたかをブログで拝見してきました。これからは、穏やかに、リラックスして過ごして頂きたい気持ちでいっぱいです。
お父様を擁護するつもりはありません。ですが、過去記事で、20歳までピアノを習っていたという事を知り、少なくとも、娘のピアノを撤去はしなかったのだなと思いました。
そして、何十年もの間、分譲マンションのローン、学費、生活費など、大変失礼ながら、お母様のパート代だけでは賄えなかったのではと思われる部分は、ケチで出し渋り、つっついてようやくお金を出したとしても、ともかく、お2人を路頭に迷わすことはしなかった、
幼かったティー子さんを殴ったり蹴ったり、虐待も無かった、
その点においては、父親の役割を捨てかけていても、わずかな部分は残しておられたのかなと思います。
繰り返しますが、晩年の様子など、お父様を擁護するつもりはありませんし、亡くなった後だから、良く言わなくてはいけないと言う事もないです。
ティー子さんが気持ちを吐き出せる場所があって、本当に良かったと思います。
ご冥福をお祈り致します。